なぜメジャーのボールパークは個性的でおしゃれなのか?

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09 /11 2015
メジャーの球場には球場内に高さ何十メートルもある巨大な滑り台があったり、汽車が外野スタンド奥で走ったり、芝生のある本格的な公園そのものが外野スタンドに埋め込まれていたり、きれいな噴水があったり、泳げるプールがあったりと日本の球場と比べて実に個性的です。この記事のタイトルの裏を返せば、なぜ日本の球場は個性に乏しいのか?という設問へ切り替えることも可能です。
なぜメジャーのボールパークは個性的でおしゃれなのか?

こうした問いについても日米の野球の歴史や文化的背景について、抑えないことにはよくは把握できません。日本の野球文化の土台となっているのは、甲子園というプレステージを持つ高校野球にあることに異論を挟む人はいないはずです。国営放送が高校生の部活の一回戦から決勝までフルタイムですべて放映するのは、野球部の全国大会以外にありません。卓球やバスケ・剣道など他の部活の全国大会が一回戦からフルタイムで放映などまずされるわけもない。高校野球の甲子園は夏の風物詩でもあり、野球文化の根幹を成しています。
この高校野球の歴史を更に遡るとその伝統の中には<武士道精神>がはっきりと流れていることがわかります。飛田穂洲という日本野球界の重鎮が、第二次大戦下において敵性スポーツとして指定された野球を時代性に適合させ生き残り戦略として「野球こそは単なるスポーツではなく、武道にも通じるものを内包しており心身の鍛錬を積むには最適なスポーツである」ことを表立って大きく打ち出しました。精神修養のために徹底したシゴキにも近い鍛錬を行うことはもちろん、もっと言えば軍事的な上下関係等、儒教の影響もあってか目上の者には絶対服従といったスタイルまで、戦時下仕様のいささか偏った形で武士道精神を野球に持ち込むことよって当時の政府の目を掻い潜ったわけです。その影響は<巨人の星>の世界にダイレクトに反映されています。その色合いは時代と共に薄れていくにせよ、今の野球界にも<武士道精神>が流れていることを端的に表す例としては、武道が礼に始まり礼に終わるというように、今でもプロ野球関係者の心ある人は、野球場に入る時は必ずグラウンドに対して一礼をし、グランドを去る時も必ず一礼をして去ります。

なぜグランドに対して一礼をするのでしょうか?

それはグラウンドには野球の神様がほんとうにいるという汎神論的な世界観があるからではないでしょうか。グラウンドとは武道における神聖な道場のような位置づけにあるのが日本の野球文化です。よって無闇にグラウンドに日本人は唾を吐きつけたりすることもありません。あるいはイチローの「野球を通して自らの魂を磨く」という野球観などは実にわかりやすいです。野球道と言ってもいいものであり、相撲道と呼ばれるものや柔道や剣道と言ったように、すべてに通じているのは<道>を求める精神です。日本の野球には時代を超えて<武士道精神>が流れています。

この武士道精神は<フェアネス>なものの考え方を重視するが故に、ズルをしてまで勝とうというスポーツ文化は日本には相対的に認められない国です。例えば東京オリンピックのプレゼンでもありましたが、オリンピック参加国においてもPEDの使用率は他国に比べて格段に低いことがそれを物語っています。フェアネスなものの考え方はPED使用率だけでなくグラウンドの形状にも影響を与えています。「もしもですが、仮に甲子園が左右非対称でありライトスタンドまでが異様に狭かったらどうでしょうか?」右投手が左投手よりも不利になることは間違いのないところです。左打者が極端に有利になると言ってもいいです。こうしたアンフェアーなものを受け入れる文化が、果たして日本人のメンタリティーにあるのかどうか?これは理屈でもありません。武道における試合の場がシンメトリーであるように、優劣を決するにあたって、球場の形状が大きな影響を与えることを是とするような精神風土は、日本にはないのではないでしょうか。それはプロ野球の世界にも通じることであって左右非対称の球場は基本的にありません。

ところがアメリカの野球文化の基本は<National Pastime>です。野球とはアメリカ人にとって国民的娯楽というベースがある。Take Me Out to the Ball Gameでも、勝つこともあれば負けることもある、それがベースボールだと歌っています。もちろん応援する地元チームに勝ってもらいたいと思い応援もしますが、そうした勝負を抜きにして国民的娯楽という以上、ボールパークへ行き、観戦そのものも心行くまで寛ぎながら堪能する文化がアメリカにはあると言ってもいいです。それに対して、<武士道精神>が底流にある日本では、シンプルにプロ同士の戦いを純粋に観に行っているわけであり、たとえば応援スタイルにしてもトランペットと一糸乱れぬ応援というスタイルを確立させています。グラウンドは神聖な道場であり、故に球場にコテコテした飾りも必要はありません。シンプルに贔屓のチームが勝つために応援しに行くのが日本の観戦スタイルです。そこに日米の決定的な文化の違いを感じるのです。

ボールパークに行って寛ぎながらベースボールに触れること自体が、歓びであるとする文化にアメリカのベースボールが根ざしているなら、左右対称の無個性なボールパークは実に退屈なものになります。できればいろんな仕掛けもあって欲しい。またMLBでは日本以上に地域密着度が高くフランチャイズシステムが浸透しているため、その地域の特性や文化、民族に合わせてボールパークそのものも個性的で魅力的に演出するのは、スポーツマーケティングの観点からしても当然です。


アメリカのベースボールの文化には<National Pastime>という理念があり、日本の野球文化には<武士道精神>が流れている。それが日米の野球文化の相違として、応援スタイルから球場の形状や選手の野球観に至るまで大きく影響を与えています。シーズンオフにはオプショナルツアーでボールパークをじっくり鑑賞する観光文化がアメリカでは成り立ちますが、日本では基本的に成り立つはずもありません。


例えばイチローが極めてバッドやグローブを大事にするのも、その根底には道具には神が宿るという日本神道の影響に大きく拠ったものです。それはチチローもはっきりと認めています。キリスト教的な神はあくまで天に在り、ホームランを打つと信仰深いメジャーの選手は天に指をかざします。しかしグラウンドや道具までに神は宿るという宗教観ではない。キリスト教の世界観とは、「神がすべてを創造した、神は人を自分に似せて作った。だから宇宙(自然)のすべては神に託された人間のものである。」こうした自然や他の生命体よりも上位に人間を据え置くというヒエラルキーがキリスト教には厳然として存在しています。グラウンドに自らの頭を下げるべき野球の神などは存在していない。故にメジャーの選手は一般に 道具の扱いもぞんざいでありグラウンドへ唾を平気で吐くということになります。
このように宗教観や文化の違いが、野球とベースボールを似て非なるものへ変質させ、現在があります。よくMLBのボールパークは個性的で雰囲気がたまらない、それに比べて日本の球場は・・・たしかにこの意見に一理はあります。しかしもし甲子園がメジャー風に左右非対称であり、球場内に滑り台や機関車やプールなど、コテコテした飾りがついているとしたらどうでしょうか?


やはり夏の甲子園にはシンプルなスタンドにカチ割りと、ブラスバンドに調子を合わせ懸命に声を嗄らしながら応援をする姿がよく似合っている。個性的なメジャーの球場を殊更に持ち上げるような日本人ファンは実に多いがメジャー至上主義もちょっと違う。

それぞれに素敵な文化がある。そうした真の意味で文化の多様性を認める目を育てることがとても大事なのではないだろうか


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大谷翔平についてのスタンス

日本ハムOB・野球評論家・プロ野球ファン・日ハムファンから二刀流・大バッシングのまさしく四面楚歌だった新人時代から一貫して栗山監督及び大谷二刀流の擁護する立場を貫く。

メジャーに大谷レベルの選手いくらでもいるとした二刀流否定派・メジャー通による「ゴロゴロ大谷説」も日本ハム時代から一蹴。

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「これは現代に繰り広げられる壮麗なサーガであり、神話という文脈の中で大谷翔平という選手を捉えなければ、その実相は決してわからない。」

写真は古代ギリシャの神殿。