野球の神様に愛される条件 スポーツキャスター時代から栗山英樹の言葉をずっとウォッチしてきた

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01 /16 2017
紀貫之は「詩歌には天地をも動かし、神々の怒りを鎮める力がある」という強い信念を持っていました。天地や神々とも大いに和する言葉。大和言葉にそれだけの力があり、それが日本の伝統文化の根幹も成しています。まずは当ブログが「言葉」をどう捉えているのか、ギリシャ哲学から話は始まります。

ということでここで引き返してもらってもかまいません。ターゲットとしている人を相当に絞り込んだ記事となっています。


       「野球とは言葉のスポーツである」  パンチョ伊東  

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目の前で繰り広げられるベースボールにおける数々の戦いもやがては歴史となる。

その歴史の中にはたしかに「戦いのセオリー」とも言うべきものが埋もれており、時代を超えて尚、普遍的であり続ける「戦いのセオリー」を抽出するためには、ベースボールを<見る>のではなく、ベースボールを観なければならない。

誰でもTVをつければベースボールを<見る>ことはできる。投げた、打った、走った、勝った、負けた、そのスポーツショーを受動することは誰にでもできるが、ベースボールを<観る>という行為は、単にそうした起きているプレイの表面上を<見る>というものではなく、その現象のもっと奥深いところにある「原理・原則」まで自ら踏み込んで、深く透視してゆくようなあり方のことを言う。

<観る>をギリシャ哲学では<観想(かんそう)>と言い、ギリシャ語で「テオーリア」と言います。英語の「セオリー」の語源となった言葉です。ベースボールというゲームの奥深いところに宿っている<セオリー>とも言うべきものまで到達し得るような眼差しを持たなければ、ベースボールを観ていることにはならない。

戦いの原理を求めるとは、ベースボールを観るという行為を探求することでもある。

ふだん我々が見慣れている何でもない街の風景も「君の名は」で一躍名を馳せた新海誠の目を通して観ると、ごくふつうの電車や高層ビルや駅の改札の風景もそのすべてが、永遠と一瞬が交錯するような鮮やかな輪郭に縁どられ全く別世界のように捉えられていることに驚かされることがある。

このように単にボーっと<見る>のと、深いところにあるものを透徹して物事を<観る>という行為は似て非なるものであり、ベースボールを<見る>ことは誰にでもできるが、ベースボールを<観る>ことは誰でもできるわけではない。だからこそ、戦いの原理は主体的にこちらから働きかけ、求めてゆかなくてはならないものでもある。

「MLB 戦いの原理を求めて」というタイトルはもともとはマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」のオマージュとしてつけたものですが、ギリシャ語で原理や法則のことを<ロゴス>と言います。このロゴスには法則以外にもう一つ意味があり、それが<言葉>という意味であります。

「戦いのセオリー・原理原則というものは、本質において言葉(ロゴス)に対して開かれたものである。」

<セオリーと言葉>はロゴスという理念によって統合され、不可分にして一なるものであるという、ギリシャ哲学の理念によって私はこれまでも「MLB 戦いの原理を求めて」というブログを一貫して書き続けてきたつもりです。

前置きが長くなりましたが、様々なプロ野球の解説者がいます。当ブログから眺めて、そうした中でも極めて数少ないキラリとした言葉を駆使していた人物こそが、スポーツキャスター時代の栗山英樹でした。栗山監督には現役時代の大きな実績があったわけでもなく、コーチや監督の経験も一切なかった。あったのは知性に裏打ちされた言葉だけでした。最初に栗山キャスターは日本ハムの監督になるに際して、「自らに残された唯一の武器は言葉である」と言っています。それを聞いた時、当ブログの言葉の力を見る目は果たして節穴なのかどうか、とても興味深く見守っていたことはよく覚えています。

最下位になればこき下ろし、優勝すれば持ち上げるような目先の結果で上がり下がりするようなファンと、もし当ブログが一線を画する部分があるとすれば、それは栗山英樹のキャスター時代からその言葉に一貫して焦点を当て続けてきた点にあります。

「メジャーではなく日本ハムに入って本当に良かった」と大谷翔平は言ったそうです。そして「大谷翔平がメジャーではなく日本ハムに入ってくれて本当に良かった」と思っているのは、日本プロ野球ファンのほぼすべてがそう思っているに違いありません。その大谷翔平を日本ハム入りへ導いた最大の立役者は、言うまでもなく二刀流というアイデアをひらめいた栗山監督です。

日本プロ野球の繁栄のために、大谷翔平を何としてでも口説けと野球の神様から勅命が下った―――。もし野球の神様から愛される条件がひとつだけあるとすれば、それはきっと栗山英樹のように誰よりも深い野球への愛によって貫かれているということなのかもしれない。

「野球は筋書きのないドラマである」「まだ首の皮一枚でつながっている」

これらの言葉は野球が続く限り、絶対になくならない不滅性を有しています。その人の遺した言葉が、時代を超えて語り継がれてゆくというのは、一種の神格を持った存在だけに付与されるものです。タブロイド紙の言葉などはその日のうちに消費されてしまい、多くの言葉は消滅の運命にあります。なぜ三原脩の言葉は現代まで残っているのかということです。

聖書のヨハネ福音書に「初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神なりき―――」とあります。

三原脩を私が<野球の神々>の一人であると考える最大の理由は、三原脩の残してきた言葉の力にあります。もともと三原脩はプロ野球選手の第一号になる前は報知新聞の新聞記者であり、言葉を生業としてきた人でした。もし言葉に神が宿るならば、栗山英樹と三原脩を結んでいるその延長線上にもまた、野球の神へと至る道が開かれているのではないだろうか。

「野球の神様はいるか」と問われて、大谷翔平は「いると思います」とそう答えていました。

日本ハムがOBでもなく現場経験も一切なかった栗山キャスターを監督へ招聘した最大の理由も栗山英樹の言葉にこそ魅力を感じたからであり、究極のメジャー志向の大谷翔平がドジャースから日本ハムへ切り替えたのも、日本ハムと栗山監督による言葉の力にあったのは紛れもない事実です。野球の神が<言葉>を通じて、栗山英樹と日本ハムと大谷翔平を必然的に引き合わせ「北の国から 2016」というドラマを完結させたと言ったら言い過ぎでしょうか。

最後に

ブログのタイトルにしている「戦いの原理を求める」とは、ロゴス(言葉)を求めることであり、もしも言葉に神が宿るなら、私にとってブログを書く意味とは野球の神を求める営みそのものでもある。


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大谷翔平についてのスタンス

日本ハムOB・野球評論家・プロ野球ファン・日ハムファンから二刀流・大バッシングのまさしく四面楚歌だった新人時代から一貫して栗山監督及び大谷二刀流の擁護する立場を貫く。

メジャーに大谷レベルの選手いくらでもいるとした二刀流否定派・メジャー通による「ゴロゴロ大谷説」も日本ハム時代から一蹴。

当ブログのポリシー

「これは現代に繰り広げられる壮麗なサーガであり、神話という文脈の中で大谷翔平という選手を捉えなければ、その実相は決してわからない。」

写真は古代ギリシャの神殿。