LAD 第5戦はヒルで勝負か 結果論で批判してはならないボウチーの継投

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10 /14 2016
ボウチーの細かい継投について、小宮山はレギュラーシーズンにおける勝ちゲームの際の映像を流しながら、ここにボウチーの巧みな継投があるのでそこに着目せよとPO直前の特集でやっていました。しかし一転、負けゲームで細かい継投をし失敗すれば、あたふたと慌て過ぎであり批判が集中するという、これぞまさに結果論の極みである。

重要な点は、なぜこうした細かい継投をボウチーは選択せざる得なかったのかという点にこそある。

レギュラーシーズンにおいてSFはリードを奪いながらも何度も繰り返し逆転負けを喫してきた事情が、ボウチーの細かい継投の背景にはある。レギュラーシーズンでとっかえひっかえ、さまざまな投手をクローザー役で試したが私が見てきた限りほぼ全滅であった。9回を任せるに足るクローザーが不在であった現状を解決すべく、最終的に導き出されたボウチーの結論は細かい継投であり、課題が浮き彫りだったにもかかわらず、フラッグディールでブルペンを補強しなかったフロントにもその責任の一端はある。

正直なところ、投手ラッキーであればSFは十分に打ち崩せるとも考えており、前回のブログにも書いたように本音ではSFはCHCを逆王手をかけて、リーグ優勝決定戦へ進出する可能性は大ではないかとも考えていました。というのも第4戦を取れば今年のレスターのERA2.44(WRA4.3)ではあるがFIP3.41と決して内容自体は良いという程のものでもなく、クエトのfWAR5.5、FIP2.96よりも低い数字ともなっており、最終戦に持ち込めばクエトの完投勝利という勝利へのシナリオはボウチーならずとも十分に描くことは可能であったからである。最終戦に限ってはバムガーナーで締めるという禁じ手を繰り出した可能性さえあったかもしれない。

カーショウとロスのマッチアップならばLADは第4戦で勝ち上がると予想することは容易く、シャーザー相手で第5戦LAD若干きついが初戦に打ち崩してもおりLADに勝利の目がないこともない程度には考えていました。1勝2敗で迎えた第4戦前に書いた前記事で共に追い込まれていたSFとLADに注目しているとしましたが、SFにより勝ち目はあると記事を書いた時点で考えていたのが本音です。結果は歴史的な大逆転負けというものであり、それは何度となくレギュラーシーズンで見てきたSFお馴染みの光景であった。

それにしてもLADについては短期決戦に勝ち上がれるというイメージをほとんどできないのはなぜなのか。絶対エース・カーショウもPOでは全く別人となってしまう。唯一の救いはLAD監督のロバーツは勝負師であるという点にある。完全試合ペースのヒルを降板させたような心を鬼に出できるのが勝負師ロバーツの真骨頂でもある。最終戦、先発は奇しくもそのヒルということになるのだろうか。LADはいつになったらNLDSを突破できるのか、数時間後に間もなくその結論は出る。




今、目の前で繰り広げられている戦いもやがては歴史となり、その歴史の中にこそ、間違いなく戦いのセオリー、戦いの原理原則は埋もれている。そして時代を超えて尚、普遍的であり続ける短期決戦における戦いのセオリーを抽出するためには、ベースボールを<見る>のではなく、ベースボールを観なければならない。

誰でもTVをつければベースボールを<見る>ことはできる。投げた、打った、走った、勝った、負けた。そのスポーツショーを受動することは誰にでもできる。しかしながらベースボールを<観る>という行為は、単にそうした起きているプレイの表面上を<見る>というものではなく、その現象のもっと奥深いところにある「原理・原則」のようなものまで自ら踏み込んで、深く透視してゆくようなあり方のことを言う。

<観る>をギリシャ哲学では<観想(かんそう)>とも言い、ギリシャ語でテオーリアと言う。英語のセオリーという言葉の語源となっている。ベースボールという競技の奥深いところに宿っている<セオリー>とも言うべきものまで到達し得るような眼差しを持たなければ、ベースボールを観ていることにはならない。

戦いの原理を求めるとは、ベースボールを観るという行為を探求することでもある。そして最もベースボールを観る目が鍛え上げられるのが、一勝、一点、一球が重要な意味を持ってくるPOということになる。

ふだん見慣れている何でもない街も「君の名は」で一躍名を馳せた新海誠の目を通して観ると、何でもない電車や高層ビルや駅の改札の風景すべてが、永遠と一瞬が交錯するような鮮やかな輪郭に縁どられ全くの別世界のように捉えられていることに驚かされることがある。見ると観るにはそれだけの決定的な違いがある。

ベースボールを<見る>ことは誰にでもできるが、ベースボールを<観る>ことは誰でもできるわけではない。だからこそ、戦いの原理は主体的にこちらから働きかけ、求めてゆかなくてはならない。

大谷翔平についてのスタンス

日本ハムOB・野球評論家・プロ野球ファン・日ハムファンから二刀流・大バッシングのまさしく四面楚歌だった新人時代から一貫して栗山監督及び大谷二刀流の擁護する立場を貫く。

メジャーに大谷レベルの選手いくらでもいるとした二刀流否定派・メジャー通による「ゴロゴロ大谷説」も日本ハム時代から一蹴。

当ブログのポリシー

「これは現代に繰り広げられる壮麗なサーガであり、神話という文脈の中で大谷翔平という選手を捉えなければ、その実相は決してわからない。」

写真は古代ギリシャの神殿。