なぜ張本勲・野村克也は栗山監督を未だ認められないのか

未分類
10 /03 2016

二人ともに超一流プレイヤーであった点についてはリスペクトしつつも、今回はそれらをすべて括弧に入れてベースボールを観る技術の観点から話を展開していきます。今回はリベラルアーツと反知性主義の話です。

===

みなさんよくご存じ、朝から「喝だ!あっぱれだ!」と叫ぶ、張本勲という評論家がいます。2016もソフトバンクが独走していればSB優勝は間違いない、ジャイアンツが抜けだせば巨人がこのままいくとしたこの張本という解説者は典型的な結果論というバイアスにかかっています。ついでに言うならば昔良かった凄かったというノスタルジアバイアスにもこれほど見事にかかっている人も実に珍しい。こうしたバイアスによる偏見には枚挙に暇がなく、張本の解説とは結果から見てプロセスを後付けで解釈するといったレベルの作業しかしていないことが極めて多いと言えます。それとは正反対の立場を取っていたのが田口壮でした。下記の記事においてそれもある程度明らかにしたつもりです。

「田口壮の解説力 その奥深さを探る」

ちなみに張本は日本ハムが最下位の2013年に何と言っていたか。「二刀流が原因で最下位になった。即座に二刀流はやめるべき。」というものでした。全く出鱈目な解説。言いたい放題であり、論理の飛躍といった詭弁も著しく、二刀流を是として最下位の日本ハムを擁護した立場を取った当ブログとしては、対極にあっただけに鮮明にそのことはよく覚えています。

そしてそれは何も張本だけではなく世の多くの意見もそれほど大差はなかったはずです。

エラーするのは何もプレイヤーだけではない。解説者も多くのエラーをする。基本言い放しであり、自らの言動には一切責任を取ろうとしないのは何も張本のようなニ流の解説者だけではなく、そうした言動はJ民やSNSにも数多く満ち溢れており、それはマスメディアやスポーツライターとて例外ではありません。

「殿堂入り 私ならバリー・ボンズへ投票する ジャーナリズムの精神とは何か」

MLBカテゴリーでかなり気合を入れて書いたものです。この記事は種を明かせば、実は社会学者のマックス・ウェーバーという人の思想を受けて書いたものです。如何に多くのスポーツライターという種族が、ジャーナリズムの精神の欠片もない曲学阿世の徒であるかを明らかにしたものです。曲学阿世とは時代の好みにおもねり、世間に気に入られるような説を唱えること。ボンズの記事だけでも是非一度目を通してもらえたら幸いです。スポーツジャーナリズムに対して、かなりの強烈なカウンターを入れたつもりです。

もし時間をさかのぼって<解説そのもの>について再現VTRを流して「喝だ!あっぱれだ!」と評価するコーナーがあったとしたら、張本の解説のひどさには喝や大喝の連発となるはずです。この解説者の特徴は「固定概念・バイアス・詭弁」反知性主義の象徴とも言える三種の神器が見事なまでに揃っており、それを張本は話芸にまで高めることによってスポーツコーナーが番組最大の立派な目玉商品となっている。角度を変えればその解説の中身はともかく、金を稼げる、衆目を集めるという意味では超一流の解説者とも言えます。

この張本の対極にあったのが、日本プロ野球史上最高のインテリでもある三原脩であります。当ブログの基本理念として、「リベラルアーツの力を信じる」というものがあります。リベラルとは自由、アーツとは技術の意。リベラルアーツとはあらゆる固定概念やバイアスから真に自由になるための知的な技術と捉えてもらっていいでしょう。栗山監督の優れたひとつの点は、固定概念に囚われない発想力にあると言われています。リーダーとしてあり方を学ぶために中国の古典である「貞観政要」を監督は読んでいるとは如何にも監督らしいわけですが、三原脩、栗山英樹というラインにはっきり見えるものとは、この「リベラルアーツの力」にあります。

当ブログが一貫して三原脩、栗山英樹というラインをここまで支持してきたという背景も両氏に共通するこのリベラルアーツにあります。三原脩、栗山英樹はワンセットで捉えています。そしてここが二人とは野村克也とも決定的に違う点です。

野村克也は「プロを舐めるな、成功してほしくない、俺が日ハムの監督なら間違いなくピッチャー」とも言いました。暗に栗山監督が失敗する姿を見て、そら見たことかと言いたい願望が「成功してほしくない」の発言の中には込められており、この野村発言のように自分の願望を対象に投影し、自分が見たいように物事を見る態度を一般に<反知性主義>と言います。

誰がどう見ても2016日本ハムの優勝は大谷二刀流なくしてあり得なかった。格下と見下していた栗山監督にこれほど鮮やかな一本を取られるとは野村も張本も考えてもみなかったに違いありません。大谷翔平と栗山監督は世の常識をひっくり返してやろうという意味では同志であり、切っても切り離せない関係性にあることは明らかでです。しかしそれはわかっていても張本や野村は大谷二刀流を一時的にせよ完全否定していた立場上、口が裂けても栗山監督を手放しで絶賛することはできない。だからこの両者は11.5ゲームをひっくり返したという日本ハムの歴史的な快挙についても、一切監督の能力へ言及することもありませんでした。

(やっぱり、誉めることはできなかったかとそう思いました)

なぜやっぱりかと言えば、その根拠もすでに「栗山嫌いの野村克也に本物の知性はあるか?」という記事を以前書いてあります。99%監督説などが典型であり、ヤクルトの優勝は野村自身の力によるものであるとしたがり、格下と思い込みたい栗山監督の優勝については風が吹いて偶然勝ったのだと勝手に結論づけている、この態度こそが反知性主義そのものなのです。

栗山監督をどうしても認めない 認めたくないところに張本・野村の限界が浮き彫りとなっています。野球界広しと言えども、三原脩、栗山英樹のように言葉の奥にリベラルアーツを感じる人物というのは極めて限られています。よもや栗山が自分よりも優れたアイデアと指導力をもって、新たな歴史の扉を開くこととなる名将であるはずもない、と信じたい元・超一流プレイヤーのプライドが生み出す強固なバイアス。栗山監督の偉業を素直に認めたくないという、ここにこそ両氏の認識における「バカの壁」があります。

「完全に勝負あり、栗山監督の一本!」

と言いたいところですが、二人から絶賛する声はないところを見ると、認めさせるにはどうやら日本ハムが日本一になるしかありません。日本一になればさすがの二人も兜を脱ぐしかない。

ドラマはまだ終わりません。これから栗山劇場、第二章がいよいよ始まります。

===

関連記事

「殿堂入り 私ならバリー・ボンズへ投票する ジャーナリズムの精神とは何か」

「田口壮の解説力 その奥深さを探る」


大谷翔平についてのスタンス

日本ハムOB・野球評論家・プロ野球ファン・日ハムファンから二刀流・大バッシングのまさしく四面楚歌だった新人時代から一貫して栗山監督及び大谷二刀流の擁護する立場を貫く。

メジャーに大谷レベルの選手いくらでもいるとした二刀流否定派・メジャー通による「ゴロゴロ大谷説」も日本ハム時代から一蹴。

当ブログのポリシー

「これは現代に繰り広げられる壮麗なサーガであり、神話という文脈の中で大谷翔平という選手を捉えなければ、その実相は決してわからない。」

写真は古代ギリシャの神殿。