それでも横綱か!ブラック白鵬 勝利の方程式

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03 /27 2016

どれだけ白鵬が日本文化の知識を得意げにひけらかそうが、知識を超えた日本の伝統文化における美意識についての深い理解がない限り、白鵬を大横綱であると認知することは私には断じてできない。


よく見ると攻撃においては相手が完全に止まっているのを確認してから白鵬だけが勢いをつけて立ち合っている。見方を変えれば陸上の短距離で言うフライングに相当する極めて汚いことを横綱がやっていることになる。更には横綱の顔に張り手を食らわせる力士がほぼいないことを逆手にとって、一方的に白鵬だけが張り手を繰り出し相手の勢いを殺してからエルボーかちあげ。攻撃の出だしといい、敵の勢いを止める防御の張り差しといいデフォルトの条件が、すでに横綱が完全に有利な条件で戦っている。


これがブラック白鵬の勝利の方程式である。ルールに書かれていないのだから、猫だましはOKだと幼稚な意見を述べていた人たちには少なくとも、今日の横綱の変化に対して文句を言う筋合いはない。ルールには千秋楽、優勝のかかった大一番で変化することは禁じられていない。


「白鵬の猫騙しとヤンキースの伝統」より敢えて抜粋。


「相撲とは神事であり、単なる格闘技やスポーツではない。どちらが勝つかという勝負以上に、取り組みにあたって神聖なる美意識のようなものが必要であり、相撲という神事には子孫繁栄や五穀豊穣という意味合いがその根底に宿っているものである。神事であるが故に、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股(しこ)があり、蹲踞(そんきょ)とは人が通行する際にしゃがんだ状態で礼をするさまを言い、塵手水(ちょうずり)とは手を清める水のないとき、空中の塵をひねる 動作をして、手水を使う代わりとすることである。


そうした神事の頂点に位置するのが横綱であり、横綱が絞めるその注連縄(しめなわ)には神域と現世を隔てる結界の役割を持つと言われている。つまり横綱は人間でありながら神の領域に存在している者である。もちろん横綱には現世における土俵の勝負において絶対的な力を求められてはいるが、それ以上にその精神性において神として勝敗を超越した美意識が深く求められている。


格下には変化や猫だましのような技を仕掛けることは相成らないという不文律・アンリトンルール が大相撲の世界には存在している。「ルール内であればあらゆる手段を成しても試合に勝とうとする」ことを<ゲームズマンシップ>といい、それに対して「あくまで正々堂々と対決して勝とうとする」ことを<スポーツマンシップ>という。白鵬の猫だましは言わば<ゲームズマンシップ>からすれば賞賛されることではあるが、同時にそれを手放しで賞賛することは、日本の国技でもある相撲という神事を単なるゲームへと転落せしめることにはならないだろうか。相撲が単なるゲームであるというなら、ゴングを鳴らしてすぐに取り組みをすれば良いということになる。神事でない以上、取組前の所作などすべて失くしてしまえばいい。どれだけ勝敗において優勝を重ねようと傲慢になり不文律に従うことの美しさを失えば、もはや横綱本来の仕事を十分に果たしているとは言えないだろう。」


不文律という明確に記載はされていないものを把握するには、より一層の深い美意識や伝統や文化に対する理解というものが必要となってくる。「本当に大切なものは目に見えない」と星の王子さまの作者・サン・テグジュペリも言っているように、文字を超えたところに相撲としての本当の大切な深い伝統と文化が備わっているのである。


ピークを越えて下り坂に入った途端に、エルボー、フライング立ち合い、ダメ押し、変化で手段は選ばずに優勝する。優勝を決めた千秋楽、最後の一番を終えて、多くの観客が優勝インタビューも聞かずに席から次々と立った中で尚、優勝を祝ってくれたファンの中には真の白鵬ファンが数多くいるに違いない。しかし同時に白鵬はこれだけは覚えておいてもいい。即座に席を立った多くのファンの中には真の大相撲のファンが数多くいることを。そして大相撲そのものよりも偉大な横綱など、ただの一人もいないということを。

横綱は尊大になり過ぎず、大相撲という伝統と文化が育んだ<不文律>に対してもっと謙虚に向き合うべきではないのか。たしかに白鵬は歴代最強の横綱かもしれないが、優勝のかかった大一番で変化することがほんとうの意味で恥だと思わなかった横綱は、過去の歴史上おそらく白鵬以外、皆無だろう。

単になる強さだけを日本の大相撲は横綱に求めているわけでないのである。


大谷翔平についてのスタンス

日本ハムOB・野球評論家・プロ野球ファン・日ハムファンから二刀流・大バッシングのまさしく四面楚歌だった新人時代から一貫して栗山監督及び大谷二刀流の擁護する立場を貫く。

メジャーに大谷レベルの選手いくらでもいるとした二刀流否定派・メジャー通による「ゴロゴロ大谷説」も日本ハム時代から一蹴。

当ブログのポリシー

「これは現代に繰り広げられる壮麗なサーガであり、神話という文脈の中で大谷翔平という選手を捉えなければ、その実相は決してわからない。」

写真は古代ギリシャの神殿。