殿堂入り 私ならバリー・ボンズへ投票する ジャーナリズムの精神とは何か

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01 /06 2016

映像作家ケン・バーンズは“The 10th Inning“というMLBを扱った映像作品で 薬物問題を締めくくるに当たり ジョン・キーツという詩人の言葉を引用している。

「今 我々が真に求めるられるべき姿勢とは、シェイクスピアがありあまるほど備えていた特質・・・<消極的受容力>。物事を簡単に善か悪かで 白か黒か裁くことなく そのどちらにも偏らずに その両極に揺らぎながら、謎や、疑惑のなかに安んじていられる力。・・・・この力こそがこの薬物問題に真に求められる姿勢なのではないのか。」

キーツのコメントを最後にもってきた点にこそ MLBの歴史を表現した バーンズという歴史映像作家の真骨頂がある。ほんとうは薬物を使用した彼らにも彼らなりの言い分があるはずです。しかし今となっては彼らの言い分を聞く余地をほんとうの意味では与えようとはしていません。ステロイドの始祖でもあり最初の伝道者であったカンセコの一番弟子であったとも言えるマーク・マグワイアが手を出したのは1988年から1989年であり、球界全体に広がりを見せるようになるのは1990年前後であったとも言われています。そしてステロイド時代のひとつの大きなピークが、象徴的な出来事とも言える1998年のマグワイアとソーサの本塁打ラプソディーであり全米中を席巻しました。少なくともマグワイヤが服用していたアンドロステンジオンというステロイドは当時サプリメントとして誰でも処方箋なしに購入できるものであり、IOCでは禁止薬物の指定をされていましたが、MLBでは罰則規定などなく、マグワイアのアンドロステンジオン服用自体は全く問題なかったのです。(その後、マグワイアは他の薬物も服用していたことも発覚したにせよ。)

これに対して記者ウィルスタインがステロイドの問題提起した。ところがMLB機構はもちろん他の多くの記者たちまでもが 寄ってたかってマグワイヤを擁護し、ウィルスタインを悪者としてつるし上げた。 その時、殿堂入りを決定するBBWAAの記者たちはいったい何をしていたのか。その多くは薬物を使用していた選手たちを容認、あるいは擁護していたということになります。しかし今となっては、そんなことはなかったかの如くステロイド時代の決算として ボンズやマグワイアそしてパルメイロ クレメンス等にすべての罪を擦り付けようとして終わりにしようとしている。ミスを犯すのは果たして選手だけであるのかということです。

己のエラーに対しても真摯に向き合うような人物にしか ほんとうは正義を語る資格はないのではないか。もしマグワイアらの影に隠れて1998年の400HR-400SBを史上唯一達成したボンズがメディアによって正当に評価されていれば1999年にボンズがステに手を出すこともおそらくありませんでした。ボンズは500HR-500SBも余裕で視野に入っていたメジャー史上最高の選手であることを自認していました。しかし遥かに劣るマグワイアとソーサがメディアによって自分よりも評価されることにプライドが許さず手を出したと言われています。 ボンズが薬物に手を出し体が巨大化したのは1999年にシーズンインする前。400HR-400SB以後のことです。ステロイドの力を借りずともこの史上唯一の記録で 一発殿堂入り可能だったのがボンズでした。

健康面及びスポーツマンシップからも ステロイドについて肯定されるべきではないことは明白です。個人的には王の記録を公で小馬鹿にするようなボンズに対して特に好意を持っているわけでもありません。そういう白黒や好き嫌いのレベルとしての話でもありません。例えば興奮剤のアンフェタミンは1960年代においてメジャーにおいて蔓延していました。「中毒になっているとは言いたくないけど、ユニフォームを着るのと同じ感覚なんだ 」殿堂入りも確実なチッパー・ジョーンズもそう言っています。グウィンも50パーセントの選手は服用していると証言しています。 つまり発覚していなかっただけで、チッパーもやっておったということです。過去1960年代に活躍し殿堂入りした選手の中にも 現代においては禁止薬物に指定されているアンフェタミンを服用していた選手がいたことは確実です。ではもし興奮剤使用の証拠が仮に見つかったからと言って、彼らを殿堂からすべて外すべきなのでしょうか? 現代においてアンフェタミンは禁止薬物の指定に入っています。

あまり指摘する人はいませんが、ハンク・アーロンは今となってはたとえ一度であっても禁止薬物であるアンフェタミンを服用したこともある自分を棚に上げて、ボンズのステロイド使用を批判していると見ることは可能です。たしかにPEDと興奮剤ではそのパフォーマンスに与える影響力は大きく違いますが、アーロンは白でボンズは黒という単純な色分けは、どこかおかしいのではないか。そもそも私も含めた多くのファン自身もまたメディアの情報に乗せられ諸手を挙げてマグワイアを英雄視し称賛していたのではなかったのか。正義を振りかざしPEDを使用した選手を容赦なく断罪するメディアやファンはほんとうに真っ白な存在なのか、という疑問が沸々と胸の内から湧いてくるのです。

残念ながら一部のジャーナリストに限っては、己の正義感に対する警戒というものがまるでなされていません。

野球賭博の問題においても正義を無暗に振りかざす者に限って、八百長とは無縁であったタイ・カッブについても浅薄な歴史の知識によって、カッブを黒扱いするというあるまじきミスを犯し、そのミスの重大さについてすら気づかず正義の剣を振り回すことに得々として己の言動に対する責任は一切取ろうとしません。

かつてマグワイヤを擁護していた記者がもし現代においてステロイダーを強烈にバッシングしているとしたら・・・単に時代の潮流に流されているに過ぎず、そこにはジャーナリズム精神の欠片もないことになる。時代を超えて尚、存在する本物のスポーツジャーナリズムとは何なのかという問いについて、改めて深く突っ込んで考えてみたいのです。それは世間において永久追放の大合唱の中にあって、なぜこのブログで福田を永久追放してはならないと間髪入れずに記事にしたのかという態度にも直結してきます。

正義を語ること自体はとても重要であり、それを否定しているわけでもありません。ただ真に抑制された中で正義の剣を抜くところにジャーナリズムの精神というものは宿っている以上、容易く正義の剣を抜くことが如何に薄っぺらな態度であるかに無自覚であってはならない。現代の価値観でもって過去を安易に裁くことが果たして本物の正義でありジャーナリズムなのかどうか よくよく考えていかなくてはなりません。ステロイドなどなくてもボンズは偉大だろうという単純な意見でもありません。ステロイドをやったからボンズは絶対悪であるという原理主義に陥ることもありません。そのどちらの声にも少しだけ耳を傾けながら、そのどちらにも組みしないバランスの中でフェアーな歴史感覚を研ぎ澄ませてゆく中にこそ、真のジャーナリズムの精神というものも拓けてくるものなのではないか。

「ボンズへ殿堂入りの投票することは正しいことなのか?それとも間違ったことなのか?」そこにはジャーナリズムの精神というものが深く問われている。例えば「ボンズへ投票することは絶対に間違いである。」という、もしこのような教条的であり白黒でしか観ることができない人は非常に残念と言わざる得ない。ボンズへ一票を投じるのせよ、しないにせよ、すべてはどういう根拠を持ってその投票行動に臨んだのかという部分へすべては集約されてきます。この問題に限っては結論に至るまでの思考プロセスの質によって、ボンズへ投票することがジャーナリズムの精神に適っている人もいれば、ボンズへ投票しないことがジャーナリズムの精神に適う人も存在するということになる。それはNYYの戦略の是非のようにやがて結果が客観的に白黒で明らかになるものとは全く違い、主観的な倫理観や歴史観が深く問われている事柄であるために、二項対立した単純な構図で捉えることは、ジャーナリズムの精神を深く哲学する絶好のチャンスを失っていることに他ならない。

ちなみにもし私に投票権があるならば、例えばアンチドーピングプログラムが正式に起動された以降に発覚したAロッド、マニーに対して投票は絶対しないが最終的にボンズへは投票することになると思う。しかしおそらくボンズへ投票はしないであろうケン・バーンズのような人物も私は認める立場を取る。(以前見た記事ではケン・バーンズは断固PED使用者の殿堂入りには否定的であったと記憶していますが、今はどうかは不明です。)なぜなら投票しないという結論に至るまでのプロセスは敬意を表すべきものがケン・バーンズにはあるからです。ブログを書くにあたって、どれだけ拙く、時にはミスを犯しながらも私はリベラルアーツに立脚したジャーナリズムの精神を大事としていきたい。少なくとも一本の細いロープを渡ってゆくようなギリギリのバランス感覚の中で、ジャスティスというものを多角的に捉えようとする営みだけは決して手放してはならないと考えている。

今はまだほとぼりが冷めていない状況ですが、時間というものはその対象との距離を適正に取らせる働きがあります。時間には人を冷静に立ち返らせる力があると言ってもいい。私の歴史観に基づいた直感ですが、おそらくボンズはいずれかの機会(ベテランズ委員会)において、必ず殿堂入りすることになります。(2016 1/7追記)


参考記事「巨人、福田を永久追放してはならない そしてピート・ローズ」


大谷翔平についてのスタンス

日本ハムOB・野球評論家・プロ野球ファン・日ハムファンから二刀流・大バッシングのまさしく四面楚歌だった新人時代から一貫して栗山監督及び大谷二刀流の擁護する立場を貫く。

メジャーに大谷レベルの選手いくらでもいるとした二刀流否定派・メジャー通による「ゴロゴロ大谷説」も日本ハム時代から一蹴。

当ブログのポリシー

「これは現代に繰り広げられる壮麗なサーガであり、神話という文脈の中で大谷翔平という選手を捉えなければ、その実相は決してわからない。」

写真は古代ギリシャの神殿。