白鵬の猫騙しとヤンキースの伝統

未分類
11 /25 2015

ベースボールには、公認野球規則(ルールブック)に記されているリトンルールと歴史の中より生じた暗黙の内に守らねばならない不文律・アンリトンルール が存在している。リトンルールについてもちろん、その不文律・アンリトンルール にも従うのがMLBのマナーであり文化というものである。今回の白鵬猫だましについて、リトンルールにおいて禁止というルールに書かれていない以上、何も問題がないという意見が思った以上に多かったのには率直に驚きを禁じえなかった。


相撲とは神事であり、単なる格闘技やスポーツではない。どちらが勝つかという勝負以上に、取り組みにあたって神聖なる美意識のようなものが必要であり、相撲という神事には子孫繁栄や五穀豊穣という意味合いがその根底に宿っているものである。神事であるが故に、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股(しこ)があり、蹲踞(そんきょ)とは人が通行する際にしゃがんだ状態で礼をするさまを言い、塵手水(ちょうずり)とは手を清める水のないとき、空中の塵をひねる 動作をして、手水を使う代わりとすることである。


そうした神事の頂点に位置するのが横綱であり、横綱が絞めるその注連縄(しめなわ)には神域と現世を隔てる結界の役割を持つと言われている。つまり横綱は人間でありながら神の領域に存在している者である。もちろん横綱には現世における土俵の勝負において絶対的な力を求められてはいるが、それ以上にその精神性において神として勝敗を超越した美意識が深く求められている。


格下には変化や猫だましのような技を仕掛けることは相成らないという不文律・アンリトンルール が大相撲の世界には存在している。「ルール内であればあらゆる手段を成しても試合に勝とうとする」ことを<ゲームズマンシップ>といい、それに対して「あくまで正々堂々と対決して勝とうとする」ことを<スポーツマンシップ>という。白鵬の猫だましは言わば<ゲームズマンシップ>からすれば賞賛されることではあるが、同時にそれを手放しで賞賛することは、日本の国技でもある相撲という神事を単なるゲームへと転落せしめることにはならないだろうか。相撲が単なるゲームであるというなら、ゴングを鳴らしてすぐに取り組みをすれば良いということになる。神事でない以上、取組前の所作などすべて失くしてしまえばいい。どれだけ勝敗において優勝を重ねようと傲慢になり不文律に従うことの美しさを失えば、もはや横綱本来の仕事を十分に果たしているとは言えないだろう。場もわきまえず「一度やってみたかったからやってみた」という白鵬の考え方はあまりにも稚拙ではないだろうか。

また別の観点から見れば、格上に使うとされる変化や猫だましという<弱者の戦術>を繰り出すということは、白鵬自身がすでに弱者である自覚、力が弱まっていることを無意識下に感じ取っていることを意味しているのではないだろうか。あの猫だましが白鵬の時代における終わりを告げるひとつの分岐点になる可能性について考えないわけにはいかない。

ヤンキースのオーナーハルにしても贅沢税ラインに拘泥し、いかにも財政が逼迫しているかのようなアピールをし、戦力として計算できるガードナーやミラーをトレードに出すというようなケチな<弱者の戦術>を取ろうとしている。白鵬が弱者の戦術を繰り出すのと同様ハルのこうした己を弱者として規定した小さくこじんまりとして振る舞いは、長期的な観点に立った時、ヤンキースの王者としての資質を最終的に損なう行為となるような気がしてならない。ハルが何を最もプライオリティの高いものとして考えているのかは、カノにつづいてガードナーを放出しようとしていることからも明らかとなった。ハルにとって経済合理性の前では伝統を継承するべき生え抜きの主力級・殿堂級の選手を出すことなど取るに足らない事柄なのである。ヤンキースは世界一であり続けなければヤンキース足りえないという矜持が果たしてハルの動きから見ることができるだろうか。経営者として良かれと思い黒字をたたき出すために振舞っていることが、ハルはそうしたことについてはまるで無自覚であろうが、実はヤンキースの伝統やブランドの破壊そのものへと繋がっている。
少なくとも私はヤンキースの伝統を継ぐ者とは生え抜きの主力でなければならばならないし、ヤンキースのブランドとはどんなことをしてでも世界一であり続けるために最善を尽くすことだと考えている。ヤンキース帝国の支配者はボス然として、あくまで強者としてのプライドを持って王者としての伝統が育んできたブランドを守り抜くような、美意識なり哲学が必要なのではないだろうか。目先の勝利に目を奪われるあまり、横綱にとって勝利以上に大切な神聖なる美意識を白鵬は見失い、目先の黒字に目を奪われるあまり、プライスレスなヤンキースのブランドそのものをハルは手放そうとしている。



両者における共通のキーとなることは、強者としての本物の自覚と伝統への深い敬意である。



大谷翔平についてのスタンス

日本ハムOB・野球評論家・プロ野球ファン・日ハムファンから二刀流・大バッシングのまさしく四面楚歌だった新人時代から一貫して栗山監督及び大谷二刀流の擁護する立場を貫く。

メジャーに大谷レベルの選手いくらでもいるとした二刀流否定派・メジャー通による「ゴロゴロ大谷説」も日本ハム時代から一蹴。

当ブログのポリシー

「これは現代に繰り広げられる壮麗なサーガであり、神話という文脈の中で大谷翔平という選手を捉えなければ、その実相は決してわからない。」

写真は古代ギリシャの神殿。